東町区TOP  INDEX 八坂神社祇園祭の歴史 祭衣装/道具 東町区歴代若連名簿 東町囃子連(囃子方) 東會(神輿方) 
 八坂神社は、八坂神社の牛頭天王社・感神院(祇園寺)の二社一寺の総称で、江戸時代までは「天王社」と呼ばれいたが、明治4年(1891)の神仏分雛令(太政官布告)により「八坂神社」と改称された。

 祭神は神道系では素盞鳴尊・奇稲田姫、八柱御子神(天照大神の5男3女)と仏教系では牛頭天王、婆利采女・八王子である八坂神社の本源は京都市東山区祇園町にあり、江戸時代の後期の文化文政期に横芝町に奉還されたといわれる。

 牛頭天王の言われはインドの九相国にあった吉祥園の王舎城の王で商貴帝といったが娑婆ら降りてくると牛頭天王とよばれたその姿は頭に牛の角が生えて、夜叉のようだが、体形は人間に似ているといわれ荒らぶる力を持っていた。その姿形から牛頭天王と呼ばれていた。

 牛頭天王は一名武塔天神ともいわれ、祇園精舎の守護神又は大日如来あるいは薬師如来の化身であるともいえる。

 牛頭天王は清和天皇貞観18年(876)に円如神のお告げにより播州広峰より山城(現在地・当時の祇園舎の場所)にうつして祀る。

 平安京に都が移って半世紀もすると都市化は進み、建築用材の為の森林伐採に伴い、河川の氾濫による水害が発生し疫病が大流行するようになった。

 庶民の難渋はもとより藤原一門の主だった人々が流行病に倒れたりすると政治的に失脚した他人の遺族の怨霊のたたりと考え牛頭天王は之を鎮め、制圧してくれる神として勅命すなわち国家行事としての御霊会(祇園祭り)を営むようになった。

 祇園御霊会は天禄年間、以降「夏越しの疫病祓い」の悪霊鎮魂行事として行われたので現在まで、八坂神社の祭礼は夏祭となっている。

 それまでの祭は春先と秋の終わりの予祝・収穫祭中心の氏神系の祭であった。
 その後、祇園の御霊会が6月15日(旧暦、現在7月15日)を中心に営まれるようになった。
 丁度その時期は疫病流行の時期であり、農村では稲作が病虫害になやまされる季節で御霊会系の夏祭りが御霊信仰とともに全国に流伝していった。

 この祭が年中行事として盛大に行われるようになったのは、円融天皇の天禄元年(970)からといわれ、一条天皇の長保元年(999)頃より、走馬、散楽、田楽などの芸能も次第に加わる様になり夏神楽を中心とする夏祭りの源流となった。

(文責:森川祐吉 転写:大野雅弘)


 祇園祭(八坂神社)


以前、祭礼は旧暦六月十四日・十五日に執り行われました。


十四日の朝、本町の八坂神社に三区の氏子総代・若連役員が集合しました。

御神輿に御霊を入れてもらうため、各区の御仮屋より大人はランニングにステテコ・白足袋、子供はランニングにパンツ・白足袋姿の男子のみで、途中休憩もとらずに静かに担いで行きました。
東町区では大人御神輿一社・子供御神輿二社でした。

     
           昭和49年横芝町祇園祭

神官のお祓いを受けた後、お囃子も賑やかに練り歩きました。川村旅館・高橋コンクリート・千葉窯業で接待を受け、東町商店街に入り、区内を隈なく渡御いたしました。その前祓いは神官代役の大木浅吉さん、その後、伊藤正五さんが務め、一戸残らずお祓いをしてくれました。
現在のお榊係りです。

 昭和四十年前後には交通量が増え、バイパスが完成するまでは、国道の使用許可がおりず、県道上堺線と町道のみの許可でした。子供御神輿だけ渡御した時期もありましたが、バイパスが開通し復活しました。

昭和五十二年からは祭礼日を、子供たちの夏休みに合わせて八月七日・八日に変更しました。

 

現在は八月の第一土曜・日曜に改められています。この年から祭りが予算化されました(越川浩一若頭)。その後、昭和五十七年には、個々の商店から受けていた接待も、区民あげてのお祭りにしようと、班別の休憩所接待をすることになりました。(土屋貞夫若頭)


昭和五十八年からは、念願の三区合同の

御神輿渡御が実現しました(吉田敏司若頭)


その後、中断もありましたが、今では祇園祭のメーン行事として高張り提灯を先頭に、町長・議長・商工会長・観光協会長・氏子総代・区役員・当番区御神輿・各区御神輿と続きます。
夕日を背にした勇壮な行列がお囃子と共に駅前に近づいて来る光景は感動そのものです。

「道中囃子」の音も一段と大きく鳴り響き、駅構内は御神輿・お囃子連・観衆でいっぱいになり、ライトアップの演出もあり最高潮に達します。


これからも永く続け益々盛んにしたいものです。

 東町のずうっと昔は樽御神輿であったそうですが、昭和初めに中古の御神輿を八日市場方面から購い求めたということです。

        

この御神輿は今でも栗山川のお清めに川の中へ入輿いたします。川に入る御神輿は珍しく、川の中流で揉み揚げるその勇ましい姿は、近隣から多勢の見物客が来る呼び物となっております。
橋の上、両岸とも人でいっぱいになります。

 *当時の子供御神輿はあずま庵さんより

二社ご寄贈いただきました。

 *その後、昭和四十二年に区民の寄付で

      子供御神輿二社購入(佐藤健二若頭)

 *昭和六十一年に大人御神輿一社購入。

      宝くじ基金の助成あり(水野忠征若頭)


 昭和六十一年に御神輿の世話係として東會が結成されました(池嶋久雄初代会長)。 

*平成二年に女性用御神輿一社を、平成三年には女性囃子道具一式を、渡辺豊元区長夫人ミチ子様より寄贈いただきました。

平成三年に女性囃子連が正式に発足しました(斎藤博信若頭)。女性の囃子連は珍しいため、新聞に報道され、平成三年十一月には全国勤労学習公開研究会で披露されました。

 平成四年には坂田池花火大会で船上よりのお囃子を、また、「日中親善ご一行横芝町来訪歓迎アトラクション」でも披露されました。

 平成十年には子供囃子連が結成されました

(指導大野雅弘氏)。

 平成十二年にはシルバー御神輿の渡御がおこなわれ、千葉テレビで放映されました。いまでも元気につづいております(佐藤晴彦若頭)。

平成十九年(伊藤元雄若頭)より元気神輿と改名いたしました

平成二十年(大野雅弘若頭)元気神輿の担ぎ手を葉月会とし、長寿会中心であった神輿の担ぎ手を、一定年齢以上の有志会としました。

 



山車の練り歩き

 昭和二十六、七年頃山車が作られ、女子及び小児による山車の練り歩きもありました。

多古の山車を参考にしました。取り外しの出来る二階建の山車を椎名甚五郎棟梁に製作してもらいました(池嶋久康若頭)。

本祭りの日には子供たちに引かれ、二階では婦女子による踊りが、階下では囃子方が段物を披露しました。 

*山車は盆踊り用の仮やぐらにも使われましたが、これらは昭和五十八年を最後に引退しました。
* 彫刻物は倉庫に、車輪は消防機庫下の貯水槽に保存されています。

          山車の拡大写真
画像をクリックすると大画面で見ることができます pdf788kb

   演 芸 大 会

夜には駅前広場で演芸大会が催され、出店が並び大賑わいです。

出し物は年によってことなりますが、昔は浅草の帝都一流芸人がやってきました。
有名人であるバッキー白片とアロハ・ハワイアンズ、湯原昌幸、石田ゆり、おぼんこぼん、島津亜矢などが来ています。

 カラオケ大会や映画上映もおこなわれ、現在も続いております

一年限りではありましたが、昭和四十四年秋に「こがね祭り」と称して駅前の十字路から栗山橋までを通行止にして、千葉県ではじめての歩行者天国を実施しました。各商店も路上で商いをし、大盛況で人でいっぱいでした。

 夜には日本テレビの子供番組「おはよう子供ショー」の楠トシエを呼んでの「こんばんは子供ショー」を行いましたら、駅構内より こめや菓子舗前まで子供づれの親子で身動きの出来ないほどの人出でした。椎名登町長と斉藤実若頭のときです。前後して八日市場の「よかっぺ祭り」ができました。


    祇 園 囃 子

*東町祇園囃子のルーツは、昭和初期に石川玄一さん、石川幸二郎さん、加瀬信幸さん、安達豊さん、押尾源七さん、若梅義治さん、林竹松さん達の皆さんが八日市場の長谷・米倉から習ったのが始まりといわれています。

 「あんりゃ、どうした」の掛け声や、お囃子は八日市場のお祭りに似ています。御神輿は中古のものを昭和の初めに八日市場方面から購入したと言われます。その後、新しく造り増して現在にいたっています。


 現在、祇園祭は横芝町最大の伝統行事として東町、本町、上町の三区が輪番制で盛大に執り行なっていいます

 東町では区民皆様の多大なご寄付により運営されております。
平成三年より、町内は班長さんにご協力いただいています(斉藤博信若頭)。